忘れられた偉才・岩瀬忠震

第9回 黒船来航〜その6

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:墨田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

林復斎VSペリー〜第2ラウンド

↑林復斎(左)とマシュー・ペリー

モリソン号の場合は日本側の対応に問題があったっていうこと?


モリソン号はアメリカの商船で、音吉ら7人の日本人漂流民を乗せていた。目的は漂流民を手みやげに通商と布教を許可してもらおうということで、あくまで平和目的の民間外交だったんだけど、彼らはあまりにも日本側の事情を知らなすぎた。事件が起きた天保3年(1837)は以前話したフェートン号事件から30年近く経っていて、幕府の異国船打払令が続いていたんだ。

っていうことは、漂流民を乗せてきてくれた船を追い返しちゃったの?


そうなんだ。イギリスの軍艦と誤認してしまったんだな。浦賀沖でも鹿児島でも砲撃されて、モリソン号は引き返すしかなかった。

じゃあ、漂流民はどうなっちゃったの?


結局帰国できなくなってアメリカに渡るんだ。中でもリーダー格の音吉という人が数奇な運命を辿る。以前話したラナルド・マクドナルドが日本オタクになったきっかけもこの音吉だし、その後上海で英国兵として阿片戦争に従軍したり、実業家になって国際結婚したり、日英交渉で通訳を務めたり、この人の波瀾万丈な人生は凄く面白いんだけど、長くなるからまたの機会に。

でも、その事件がアメリカ側のツッコミどころになったのはよくわかるわ。


幕府側が「オランダ風説書」でこの事件の真相を知ったのは1年後だった。そこで、モリソン号が再び来た場合どう対応するかという評定を行うんだけど、「オランダ船に乗せ替えて漂流民を受け取る」という意見と「再度打ち払うべき」という意見に割れる。実は、この評議の中で漂流民受け取り、打ち払い反対という平和路線を主張していたのが、林復斎の父、林述斎だった。

へぇ〜、妙な因縁を感じるわね。



因縁はそれだけじゃない。その頃尚歯会の会合で幕臣からその話を聞いて憤激した高野長英がパンフなんかを印刷して「打ち払い反対キャンペーン」を始める。まぁ、これは幕府内の強硬論だけを聞いて誤解してしまったからなんだけど。

あら、じゃあ幕府の最終決定はどうだったの?


「モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し、漂流民はオランダ船による送還のみ認める」ということだった。しかし、蘭学者のリーダーだった渡辺崋山も「慎機論」なんかを書いて幕府の対応を批判したから、日頃から蘭学者グループを「蛮社」と呼んで貶んでいた南町奉行・鳥居耀蔵の暗躍で、渡辺、高野ら関係者が理不尽とも思える重罪に処せられる。これが「蛮社の獄」だ。そして、その鳥居耀蔵こそ、林述斎の息子なんだ。これも妙な因縁だろ。

平和路線を主張していた林述斎の息子がどうしてそんなことをしたのかなぁ。

天保の改革で有名な老中・水野忠邦の下で暗躍した鳥居耀蔵は、実に複雑怪奇な人物で、一言では説明しにくい。ちなみに当時、この鳥居とライバル関係にあったのが「遠山の金さん」こと遠山景元なんだ。

えっ、遠山の金さんって、実在の人物なの?


そうだよ。なぜ鳥居が「妖怪」と呼ばれて嫌われ、逆に遠山景元が大衆のヒーローになったかは、また別の機会に話すとして、問題は本編の主人公、岩瀬忠震がその鳥居耀蔵の甥であったということだな。この事実は、彼の人生に暗い影を落としていたんじゃないかと思う。

仕方ないわね。親子や兄弟でも、ぜんぜん考え方が違う場合もあるし…。


話はちょっと脇にそれたけど、ペリーにモリソン号問題を問いただされた林復斎は弁明を迫られる。そこで、復斎はそのすべてが誤解であるということを説明しなければならなかった。その上で、当初の予定通り遭難者の親切な取り扱いや薪水食料、石炭などの補給について確約した。これにはペリーも納得して、まずは第1ラウンド終了だ。

なるほどね。第1ラウンドが終わって、蔵三さんの採点は?


まずはアメリカの1ポイントリードだろうね。でも、日本側としてもこれは想定内のことだから、まだまだジャブの応酬程度の話。問題は間違いなく次のラウンドでペリーが「通商交渉」という強烈なパンチを打ってくることだ。

かなりガードを固めないと打ち込まれちゃいそうね。


そんなわけで、第2ラウンドの開始だ。予想通り、ペリーは通商要求を全面に押し出してきた。そこで林復斎は「貴国の主たる目的は捕鯨船の乗組員を救えという人道上の問題ではなかったのか。日本側が仁政で対応していることが判ったらそれで目的は達したのだから通商などはよいではないか」と突っぱねた。これにはさすがのペリーも反論できなかった。

アメリカ側の「人道路線」攻撃が仇になったわけね。


さらに林復斎の反撃は続く。「そもそも我が国は自給自足で成り立っている。貴国に限らず、貿易をしなければならぬ理由がない」とね。

凄い! 林先生は理詰めで反撃したのね。


これにはペリーも従うほかなかった。正論だからね。当時の記録にはペリーの返答としてこう書かれている。「交易は国之利益には候へ共、人命に相拘り候と申には無之へは、最早此上交易之儀は強て相願申間敷候」。さぁ、ここで第2ラウンド終了だ。ペリー側の攻めをかわして打った林復斎のカウンターパンチで日本側に1ポイント。これでイーブンだな。

でも、それで引き下がるペリーじゃないでしょ。そのままじゃ帰れないもんね。

もちろん。第3ラウンドは開港要求だ。国交が成立すれば、当然外交官を駐在させる場所が必要になる。アメリカ側からすればそこが通商交渉の舞台になるから、なるべく場所は多い方がいいし、なるべく江戸に近い方がいい。

はは〜ん。大使館とか領事館っていうことね。確かに貿易はしなくても、国の代表を置く事務所が要るっていうのは正論よね。

逆に日本側としてはなるべく開港は少ない方がいいし、なるべく江戸から遠い方がいいということになる。さてさて、第3ラウンドに入って、林復斎VSペリーの交渉は、ますます熾烈さを増していくんだな。

←「日米和親条約締結の地」記念碑(横浜市中区)

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